今回は仏陀の言葉の空について説明したいと思います。
空というのはよく話のネタになりますが、真実においての空とはどういう性質のものかについて体験からお話ししたいと思います。
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。」
(スッタニパータ 1119)
この文章を見ていくとさまざまな解釈をされる空ですが、明確に対称用語を用意してくれていますね。
つまり自我に固執する見解というものです。
これが空の反対語というような文章となっています。
とすれば議論の余地もなく
・自我に固執する見解とは主観
・空とは客観
ということだろうと見てとれます。
瞑想をしていくと自分も含めた人間というのはすべて自分の意見に従って生きていることがわかります。
そのため私が嫌いなのが人を説得することなんですね。
説得したところで
・人は説得されたことを恨む
・そして最終的にその人の意見など変わらない
というように考えているからです。
今までもいろいろな動画をアップしてきていますが、説得しようと思ったことは一度もありませんし、これからもないでしょう。
説得しなくてもその人の考えが間違えていれば絶対に壁に当たるので、正しいように変わらざるを得ないわけで、それは私などの役割ではないとも思っています。
ただし瞑想というのはすべての自分の考えというのを完全にストップして呼吸に注意集中していかないといけません。
故にそこに主観の入り込む余地はないんですね。
その状態で呼吸、そしてその奥にある霊といわれる生命、幸福などを直視していき、やがて宇宙の最奥を理解していくということにつながります。
そしてさらに重要なことは、
・自分の考えをストップする
・注意するべき対象にその状態で集中していく
という訓練をしていくので、日常でもこの形、あるいは意識の状態というのを発揮できるようになるんですね。
これが日常で空を発揮するということだと考えています。
もうあらかた空の内容についてはお話しできたと思いますが、あらためて空についてですが、
・自分の意見を介さないで世界を観察すること
・それは瞑想練習によって簡単に獲得できること
というものだと私は理解しています。
何か空といいますと非常に難しいことで習得にすごい年数がかかったり、場合によってはセンスがないと感じるのも無理というようなイメージもありますが、目安としてですが私の場合瞑想をスタートして数ヶ月ほどでここまでは理解できたと記憶しています。
では空を日常生活に適用するとどのようになるでしょうか?
たとえば入試に落ちたというイベントがあったとしましょう。
たいていは失意が出てきて、しばらくネガティブなことを考えるかもしれません。
ただ空のようにこのイベントを解釈すれば事実としてある現象というのは
・入試に落ちた通知の紙が手元にあること
・そして入学先が現在存在していないこと
・さらに失意を感じている自分がここにいること
だけなのですね。
失意にかかわる思考をすべてストップしてみると、やるべき選択肢はそう多くありません。
まず来年も入試を受けるのか、このまま社会に出てしまうのかを選択します。
次に来年も受けるのであれば
・不合格となった原因を分析すること
・さらにその対策を検討すること
・そしてその対策にベストマッチな予備校を選択すること
以上ですね。
論理的に考えると失意で動かない時間が無駄なので、今すぐに行動するべきという回答も出てきます。
つまり空を知り、その上に生きるのであればへこたれにくくなり、同時にそれゆえに開運体質になるということも意味しています。