今回から仏陀の言葉を説明していきたいと思います。
ただ私が思う特に大事だなというところ、そして私でもわかる範囲内でのものしか取り扱えないと思いますのでそこはご了承いただければと思います。
つまり私の意識内で、瞑想中などに体験して確認できたものしか扱わないという感じになります。
人が「これはわがものである」と考える物、
それは「その人の死」によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。
(スッタニパータ 756)
人間というのは基本的に自分の意見に従い生きています。
誰でもそうですが、その意見が自然の法則と合っていないといつか苦しみを持つことになります。
たとえば大事にしているモノの変化や消失、また大事な人との別れ、死別ですね。
瞑想をしていくと生成した吸気というのは必ず吐くわけで、絶対に他の道はなく消失していくということを直視します。
そうして瞑想を続けていくとやがて生成と消滅とは必ずセットであるということを認識し、そして自分の中で定着していきます。
瞑想などで得るのは真実の知識とされ、本当の知識というのはクイズで正解するただの記憶とは違い、生き方そのものを変質させます。
そして知識というのは自分の中でいつでも再現でき、それに沿って本当に生きることができたときに知識といいます。
つまり生成と消滅を聞いたところで、一時的に手にしたものを失い悲しむというのは何もわかっていないということの証拠となります。
このような知識を収集していくために人は生きているというわけです。
アートマンというのは真我ともいわれますが、本当の自分という意味だと解釈します。
さて重要なことはアートマンとは何かということです。
そんなに遠いものでもなく、私の経験上は人間であればだれしも今この瞬間にも接触していて、接触しているが故に生きられているということになります。
アートマン、我々は霊(ガイスト、純粋精神のこと)というのは
・生命
・ただプラスとマイナスの運動を続ける純粋な意識
・幸せ
だと理解しています。
瞑想で呼吸に注意集中をしていくとこのアートマンに到達し、アートマンと一体化することで、アートマンを直接的に理解するということができます。
本物の集中というのは対象との一体化を意味し、一体化することで本当の対象への理解ができます。
地球でいわれる共感や理解というのは所詮は対象の表面に突き刺さっただけのものですが、内部に侵入し、一体化することで真実の情報を取得できるということになります。
純粋な霊の運動に集中できれば、えもいえない幸福しかありません。
あるときに私は理解しました。
人間というのはどうしても人生がうまくいかないときに不幸や不快感を持つのですが、人間の本質が幸せであるので、ひょっとすれば人間というのは賢くなっていくと幸せになれる、そして人間の終局的な目的というのは幸せになるためではないか?ということです。
さてもう1つお話ししたいことがあります。
人間の賢さです。
一般的に現代では記憶偏重主義だと思います。
たとえば頭の良い子というのは教科書を暗記し、それを答案上で再現できることを点数が良いと表現します。
ただ賢さというのはクイズに答えられるかどうかではなく、自然を観察し、そこから宇宙の法則を認識し、その通りに生きられる確率を指します。
たとえば自然は植物自身が枯れても、痛いとも、かゆいともいわずに黙々と枯れて、また再生もします。
虫も同様で、死ぬ直前の瞬間まで死などのネガティブを思わずに、黙々と死んでいきます。
さわがない、そして法則にただ従うこれが賢さなんですね。
この法則を受け入れるかどうかは人間の自由です。
ただ時間が流れるのを嫌といってもそれを止めることはできませんし、次第に老化していく自分をどうにかしようと思っても無駄です。
正解はただ老化をただ観察し、そういうものがあるようだと認識するだけで良いのです。
自然の法則に逆らうことをババジは苦悩と表現したと聞いていますが、私も瞑想中に同感だと感じています。
このように時間のある宇宙の領域では生成と消滅とは絶対にセットでやってきます。
少なくても次の瞬間にはもう変化していて、私の物と解釈したところでどの瞬間の物を自分のものとするのかという問題が残ります。
ではこのような宇宙の法則があったとして真実に私のものといえるのは何でしょうか?
それは
・一体化したことで獲得する知識
・そして一体化する能力(真の愛)
・そして知識が蓄積してきて発揮できる英知(賢さ)
などです。