他力本願、自力本願とよくいわれるのですが、言葉ってかなり難しいですね。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)が他力でまずイメージされますが、他力本願というのは決して他人をあてにして生きるという意味ではないんですね。
今回は他力本願とは何か?そして本当の他力本願で生きることについてお話ししたいと思います。
他力本願というのは阿弥陀仏の本願の力というのがもともとの意味ということです。
他力とは他を頼むということでなく、よりどころとするという意味でもあります。
そして本願というのは本当の願いというような意味となります。
他力とはいわば、人間という立場を超えて、阿弥陀如来さまというような人間からかけ離れた視点に沿って生きるという意味となります。
そして阿弥陀さまの本当の願いに沿って生きるというような意味ともいえます。
・自己の願いから離れる
・人間として個の視点を捨てる
ということがまず前提となり、阿弥陀さまのような全体の視点で生きるということになりますね。
・全体的視点の阿弥陀さまの視点を想像する
・阿弥陀さまが人にどういうように生きてほしいのかを考える
というような形になるかと思います。
阿弥陀さまの本当の願いについても親鸞聖人は教えてくれています。
破闇満願(はあんまんがん)といって、無明の闇を破り願いを満たすという意味となります。
つまり人々の無明、闇を解消し、人々が幸せになることというような意味ともいえますね。
無明と解釈するのであれば真理に対して知識がないこと、闇と解釈すれば心の暗さといえると思います。
他力ということを特に意識すれば無明でいえば何のために生きているのか?ということを認識し、理解し、そしてそれに沿って実際に生きることができるようになるということではないでしょうか?
また幸せということであれば、不幸とは何かを理解するということも非常に重要といえますね。
一般的に現代だと倒産した、解雇された、仕事を失ったというときに不幸といいますが、本当は
・倒産、解雇、失業で何かを学ぶためではないか?
・そして再起するまでの体験も必要なことではないか?
というような視点も阿弥陀さまの視点といえるかもしれませんね。
一般に不幸といわれることを繰り返し体験し、消化し、はじめて人は強くなり、幸せになれ、そして優しくもなれます。
実は他力本願とともに自力本願というのも意味は現代ではかけ離れたものとなっています。
自力本願といえば一般的には自分の実力でというような意味となりますが、実際の意味は
・阿弥陀如来さまを疑う心
・本能
・先天的に持つ力
というような意味となるかと思います。
阿弥陀如来さまはもともとすべての人を幸せにするというようにいわれますが、それを疑うということをもともとは自力本願というという説もあります。
この意味に立つと、他力以外はすべて自力となるということですね。
その他には、生まれつき教えているわけでもないのに持つ力を自力とする説もあります。
南無阿弥陀仏という念仏を唱えると極楽往生できるとしたとよくいわれるのが親鸞聖人ですが、実際は少し違うんですね。
ただ口で念仏を唱えるのでなく、他力の念仏を唱えてはじめて極楽往生できるとしていたんです。
一般的には南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生させてほしいというようになりますが、実は毎日幸せにしていただきありがとうございますというような気持ちで念仏を唱えなさいということなんですね。
つまり阿弥陀さまに感謝する気持ちで念仏を唱えていくと極楽往生できるというように親鸞聖人はしていたということです。